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考えの肴

囲碁が好きかと聞かれると、「どうなんだろう」と思う。
 
好きなことは、というと、ぐだぐだと、だらだらと、いろいろと、考えること。
 
だから、囲碁はそういった「考える」ことに必要な肴(さかな)のようなもの。
 
肴があるからこそ、考えることが盛り上がるというか、際立つというか、そんな感じ。
 
そこが囲碁好きには理解してもらいにくいところで、Ikenagaが囲碁好きの仲間に入りにくいところ。
 
 

当然のなりゆき

「囲碁って、どーゆーものなの?」という疑問は常に付きまとう。
 
多くの物事は「やってみればわかるさ」と気軽に応えておけばよかったりする。
 
しかし、囲碁に関しては残念ながらそうはいかない。
 
囲碁を始めた人は必ず悪戦苦闘する。それも、かなり悪戦苦闘する。
だから、大抵の人はどういうものか実感できる前に囲碁をやめてしまう(だろう)。
 

タップ

この前の碁会でのこと。
 
対局した相手の若者は、石を握らないまま碁盤上に手を持っていき、盤面に触れようとした。
 
「あ、間違えた」
 
最初は何のことだろうかと思ったが、現実の碁盤上で対局していることを一瞬失念していたようだった。
 
コンピュータ上で対局できるようになって随分経つが、そういう中で碁盤上を手でタップ(タッチ)しようとする人はいなかった。
 

時間がないからこそ

一つの事だけをやっていれば良い。
 
そんな人は世の中にほんの少しいるかいないか、だろう。
 
 
ところで、自分は囲碁を始めるまで、「習い事」の面白さについて、気にも留めることがなかった。
 
普通に考えて、習い事には「上達する」という面白さが当然ある。
しかし、それだけではない。
 

半“地”

「あと一手加えると一眼作れる形」を「半眼(はんがん)」と呼ぶ。
 
碁では、白番と黒番とが交互に打つので、半眼が2つあれば最低でも一方の半眼に一手加えることができる。つまり最低でも1眼は作れる。
 
だから「半眼2つで1眼」という計算ができる。
 
 
これと同様に考えて
 
「あと一手加えると地になる形」が2つあるとすれば、最低でも一方を地にできる。
 

読まない日々

以前は碁を打っているとき、手数を数えたり、数手先の石の可能性を読んでみたりしていたものだが、最近ではほとんどそういうことをしていない。
 
なんとなく打って、なんとなく勝敗が決まる。
ギリギリの戦いを行っている気がしない。
 
今の方が打っていて楽だけど、楽してる分、怠けているような気がする。
 
読まない理由は他にもある。

納涼囲碁大会

今年の1月末に実施した『新春囲碁対局』から半年が経った。
 
そろそろ、次の対局を開催したいと思う。
 
ということで『納涼囲碁大会』を7月のどこかの週末で開催したい。
 
前回は石倉教室つながりのメンバー、ということでIkenagaを入れて2名だった。
 
今度はどうなるだろう・・・。
 

気が付けば

6月から囲碁教室への参加を再開しようかと思っていたのだが、気がつけばもうすぐ7月。
 
7月になれば、碁を初めて丸二年が経ったことになる。
 
「せめて今年の夏には初段を・・・」と思っていたのが、随分と出遅れた感がある。
 
おまけに、同じ碁会にはメキメキと力をつけているメンバーもいて、この調子ではいけないと思わされてしまう。
 
早々にトレーニング資料を完成させなければ・・・。

布石と定石の一体感

基本的なことだと思うが 「こういう風に布石を」 と考えたら、ほぼ並行して 「こういう風な定石を」 という選択の機会がある。
 
思うに、布石だけや定石だけを偏って勉強していても、何かが不足している、という感じは否めない。
 
やはり、すべての行動が連携し “一体感” が持てるように、形を勉強もできなければいけない。
 
偏った勉強をしてても、いつか、それらが繋がりだすようになる。
 

一色碁

まだ囲碁サロン燦々の囲碁教室に参加できていない。

ぼちぼち囲碁のリハビリをやってはいるが指導碁を受ける自信がない。
正確には、指導碁を受けてもその内容をきちんと吸収できる自信がない。

ということで、6月4日(土)は参加している碁会(池袋)に出向いた。

そこでは、のんびりと打っていたが、ふと

「一色碁を打ちたい!」

と思い立ち、相手にお願いして途中まで一色碁で打ってみた。