1970年11月25日

1970年11月25日、三島由紀夫は楯の会のメンバー4人とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪問した。
面会した総監を監禁し、集められた自衛隊員を前に三島はバルコニーで決起を促す演説をした後、自決した。

私はその頃、実家の東京を離れ、大坂で一人で家出同然の生活をしていた。
(事件のあと、心配した私の母親から電話が掛かってきた。)

昼のNHKニュースで事件が報道され、私は記者の伊達宗克氏が三島の「檄」を読むところを見ていた。
(伊達氏は全文を読もうとしていたが、アナウンサーが再び報道を続けたため、途中までとなってしまった。)

事件のあと、たくさんの人がコメントをしていた。
その中で、作家の野上弥生子さん(当時84歳)の「三島さんにマイクを持って行って差し上げたかった」
という言葉が強く記憶に残っている。

それから47年が経った。当時の関係者で既に亡くなった人もたくさんいる。

最近我が社に入った若い女性はこの事件のことを知らなかった。
今の若い人には知らない人も多いのかも知れない。

昨日11月25日、Wikipediaの「三島由紀夫」を読んでいた。紙で印刷すれば約70ページくらいになりそうな貴重な資料。
(この中に出て来る坊城俊民さんは、三島の作品「詩を書く少年」の中の文芸部委員長Rのモデル。私の高校時代の教頭先生だった。)

さらに「三島事件」には以前は記載がなかった(と思う)事件の詳しい経緯について書かれている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/三島由紀夫
https://ja.wikipedia.org/wiki/三島事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/檄_(三島由紀夫)
https://ja.wikipedia.org/wiki/葉隠入門
https://ja.wikipedia.org/wiki/豊饒の海

「豊饒の海」四部作の最終巻「天人五衰」の原稿は自決の日の朝、新潮社の編集者に渡たされた。
三島は「豊饒の海」について、「カンボジアのバイヨン寺院のことを、かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした」と語ったという。

私は昔は第二巻「奔馬」が好きだったが、近年は第四巻「天人五衰」を折に触れて読む。
「天人五衰」の冒頭の海のシーンが良い。(三島は他の作品でも海のシーンをたくさん書いている。)
ここには作品全体を貫く世界観が表れていると思う。

そしてエンディング、年老いた本田は若くして亡くなった親友松枝清顕のかつての恋人で(第一巻「春の雪」)、今は尼僧となった聡子に会いに行く。
しかし尼僧は、

「松枝さんという方は、存じませんな。」
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」

と言う。

そして、案内されたお寺の庭に本田が佇む最後のシーン。
(これが三島の最後のメッセージなのだと思う。16歳のデビュー作「花ざかりの森」の最後のシーンとの類似が不思議。)

これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいたお庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
そのほかに何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本田は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。......      (「豊饒の海」完。)

近年読んだ本では、「三島由紀夫、左手に映画」(山内由紀人 著、河出書房新社)が非常に良かった。